(2021/2/11)









 10.手放す









「ちょっと遠回りして帰らない?」


は伊地知と何かしらのやり取りを終えた後、スマートフォンをポッケにしまい込んで棘に言った。

この上ない提案に、棘は勢いよく頷いて返した。




彼女の手はとても温かかった。

セーターの端からわずかにはみ出した指先はとても柔らかくて、細くて、自分のものとは全く違う異性のものでドキドキした。

時折嬉しそうに振り返っては、楽しそうにおしゃべりする彼女で頭がいっぱいになる。

相槌を挟んではいるものの、話なんてまるで頭に入ることはなくこの状況に胸が高鳴って仕方がなかった。


手を繋いでいる。

好きな人の手に触れている。

お喋りをしている。

それだけの事なのに満たされた気持ちが胸いっぱいに広がった。

甘酸っぱかった。

この空気も、距離感も、過ぎていく時間も全て。

伊地知さんには申し訳ないけど、このままこうしていたいと思った。

いつまでもこの時間が続けばいいと。


「ねぇ、今更だけど棘君って名前で呼んでもいい?」


彼女が動くたびにぴょこりと髪の毛が揺れて可愛かった。

は子どもっぽく首をかしげて棘に尋ねた。

答えは勿論決まっている。

棘は首肯し「しゃけ」とおにぎりの具を一つ伝えた。

ぱぁっと表情が明るくなる

嬉しそうに頬を綻ばせて「棘君、棘君」と唇を震わせる。

耳に心地よい音だった。

もっと呼んで欲しい。

もっと声を聞かせて欲しい。

なぁに、と言わんばかりに首をかしげると「呼んだだけ!」と少し恥ずかしそうに目線を逸らして歩き出す。

そんな彼女にもう首ったけだった。


「ねー棘君」

「すじこ」

「…やっぱいいや」

「高菜?」

「ふふ、なんでもないよー!」


振り返るようにこちらを見た彼女は悪戯っぽく笑っていた。

間もなく…あと5分もしないうちに伊地知さんとの合流ポイントである駐車場にたどり着く。

彼女は棘と手を結んだまま、ひょい、と歩行者道路と車道を分ける塀の上にのぼった。

近接が苦手と言うからてっきり運動神経がないのかと思いきや全くそんなこと無い。

むしろ体幹と俊敏さはその辺の一般人よりは上だった。

きっと近接という弱点を補うために鍛え上げたのだろう。

何かあったら受け止めようと棘は彼女の隣を歩くが、彼女の歩みは安定しておりその心配は必要なさそうだった。


「もうすぐ駐車場ついちゃうね」

「しゃけしゃけ」

「あーあ、楽しい時間ってあっという間」

「いくら」

「ふふ。伊地知君待ちくたびれちゃってるかもね」

「しゃけ」

「…」

「こんぶ?」


急に黙り込んでしまった彼女を見上げる。

塀に昇っているせいでいつもは少し見下ろす目線が上にあった。

背中から夕日に当てられて、陰になっているせいか彼女の表情はよく見えない。

棘は手だけはつないだままで疑問の言葉を投げると、はそれに答えることなく塀からひょいっと飛び降りて目の前に降り立った。

ぱち、と視線が重なる。

その時の彼女の表情と言ったら――。


「棘君、手」


はそこで一区切り置いて、言った。


「――ほどくね」


すぐに言葉が出てこなかったのは彼女の今にも泣き出してしまいそうな表情が焼き付いてしまったからだ。

彼女は棘の言葉を待っていた。

棘は繋がったままだった手を見下ろした。

まだ、繋いでいたい。

そう思うのは我儘だろうか。

離したくない。

まだ一緒に居たい。

けれども伊地知さんをこれ以上待たせるわけにはいかないという事も頭の内では理解していた。

時間で言えばたった2、3秒の事。

しかし体感時間はそれ以上に感じさせた。


「ツナ」


こくりと頷いて呟いた。

その言葉をきっかけに、ほどける手。

互いの熱が離れていく。

そして。

…意識すらも。




「解呪完了」




ブラックアウトする視界。

あれ、と思った時には意識は真っ逆さまに急降下していた。



















「すみません、遅くなっちゃって」


伊地知さん、とは続けた。

誰そ彼時。

太陽の輪郭がぼやけて遠くの方へと消えていった。

雨上がりの蒸し暑さが一変し、肌寒さが心の隙間を縫うように走り去っていった。

虚無感。

大きく開いた穴からぽろぽろと拭いきれない感情がこぼれて落ちた。


「大丈夫ですか?」

「はい。結んだ縁を解くのはこれが初めてではないですし、今回は何の問題もなかったかと」

「そうではなく――」


目がぱちりと合った時、伊地知はその表情に狼狽えてしまった。

眼鏡を整えて「いえ、なんでもありません」と絞り出すように言った。

伊地知の協力を得て後部座席に棘を横たわらせると、は一瞥することなく淡々と言った。


「棘君の事、宜しくお願いします。高専につくまでには目が覚めると思いますけど」

「わかりました。さんは…」

「はい、先ほど連絡した通り猪野君と合流して任務に当たります。この距離なら術で飛べるので私はここで大丈夫です」

「…」


事務連絡を終えると伊地知はいよいよ黙り込んでしまう。

今のにとっては好都合だった。

彼らしい優しさに甘えて、は最後にちらりと後部座席ですよすよと寝息を立てる彼を見た。


―― ごめんね。


また、学校で。

それだけ言うとは手印を結んで術式を展開する。

人一人がくぐれるほどの環が出来上がり、そこに飛び込んだ次の瞬間、彼女の姿はもうどこにもなかった。


ふわり、と残ったのはゆずの香り。

雨上がりの風に吹かれてあっという間に夜の中に溶けてしまった。














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