(2021/2/25)
11.縁解き
意識が揺れる。
温かい水の中に包まれているような心地だ。
そこには快も不快もなく、ぼんやりと浮かび上がってくるシルエットを傍観し続けるしか出来ない。
「――」
音が遠くで鳴る。
人の声だ。
でもそれがいったい誰のものなのか、そもそも実在した人のものなのかも曖昧だった。
「―、――」
曇っていたガラスが少しずつ晴れてきて、目の前に段々と人の陰が浮かび上がってくる。
その人影には見覚えがあった。
あぁ、そうか、彼は。
名前は何と言っただろうか、記憶が欠落している。
大切な人だった気がするのに、その時の記憶すらもう不確かだった。
「 好きな人が出来たんだ 」
知ってるよ、という言葉の代わりに「そっか」と私は答えた。
彼と私を繋ぐ縁の糸はとっくの昔に解けかけていたのを知っている。
視線を落として私と彼を繋ぐ、緩み切ったその片方をぎゅっと握った。
(これを引けば、終わる)
縁を結ぶのも、解くのも、切るのだって容易だった。
きゅっと結びあったはずなのにね。
知ってるよ。
だって、見えてるもの。
見えるんだもの、縁が。
解けかかった彼の糸は少し前から別の人へと伸びていた。
それからなんとなく彼の挙動がおかしくなって、よそよそしくなって、ぎこちなかった。
一度は結ばれたはずの糸にもう一度目を落とす。
これを引けば、彼が望むように…と思うのに勇気が出ない私はいつだって臆病者だ。
「ごめん」
「謝らないでよ。――くんと過ごした時間、とっても楽しかったから」
「ありがとう」
「こちらこそありがとう」
ずっしりと重い気持ちが胸を占める。
大丈夫、笑えた。
寂しくないと言ったらウソになる。
でもきっと寝て起きた頃にはこの痛みも忘れてしまうんだろうなって思った。
慣れてる、から。
「また、学校でね」
ようやくの事で決心がついた私は彼との縁を解いた。
寂しさは一瞬だ。
解くのは容易だった。
だって。
最初からほどける様にしか結んでいなかったから。
(あぁ、そうだ。母さんが死んじゃった時からだ)
人と縁を結ぶことが怖くなったのは。
きつく、固く、枷になってしまうかもしれないその糸で、人を傷つけるかもしれないという恐怖感を体が覚えてしまっている。
『 僕とおいで。君が自分から誰かと縁を結べるようになるまで 』
本当にそんな日が来るのだろうか。
景色が霞んでいく。
意識が遠のいていく。
手のひらに残る垂れ下がったままの糸の行方を見つけられないまま、視界はブラックアウトしていった。
+
「君は医務室を自分の部屋か何かと勘違いしてないか?」
目覚めた時、そこは見覚えのある天井だった。
声の主が言うように自室のものではない清潔感あふれる壁。
けれども馴染み深く、この高専に来て間もないというのに何度も見ている光景だった。
目の下に隈を作った女性――硝子さんは妖艶な笑みを浮かべてを見た。
「あ、硝子さん!出張から戻ったんですね、おかえりなさい」
「あぁただいま。…といっても戻ってきたのは2日ほど前なんだが」
「…え」
「つまり君はその期間眠っていたことになる」
「え」
「入学おめでとう」
「え」
「…ふふ、確認してみたらどうだ?」
一文字しか呟けなくなったは慌てて周辺に目を配らせ、自身の携帯を見つける。
哀しいかな2日間も充電と言うご飯にありつけなかったスマホは低電力モードではあるが何とか起動してくれた。
画面のロックを解除するとアプリからの通知がずらりと縦に並び、その上にはでかでかと今日の日付を表示してくれた。
仏頂面で画面を睨みつけていると、硝子さんは楽し気に笑いながら「本当に君は見ていて飽きないな」と口元を緩める。
「たった一度きりの入学式……」
残念だったな、と硝子は言ってマグカップに口付けた。
ぶーと口を尖らせ、はスマホの画面に指をすべらせて通知に目を走らせる。
“真希さんがグループに招待しました”
“新着メッセージ”
“新着メッセージ”
タップで画面を開くと、「同級生でグループ作った」「起きたら入れ」という端的なメッセージが開かれた。
真希との個人のやり取りにお気に入りのカワウソのスタンプで了承を伝えると、流れ作業のようにグループの招待をタップで承認した。
同級生の中に一人遅れて参加する。
(せっかくならみんなで一緒に始めたかったのに)
はじめくらい。
―― ほどくね。
「…」
そこまで考えたところで終わらせたばかりの縁のことを思い出してはシーツにスマホを投げ捨てる。
不貞腐れるように枕に頭を沈めると静かに長く息を吐いた。
重たい瞼を閉じれば鮮明に浮かび上がるあの時の光景。
雨上がりの匂い。
夕焼け。
彼の表情。
手の温度。
彼と私を繋ぐ縁。
心の奥が疼く。
寂しさを誤魔化すように毛布を手繰り寄せた。
『 一人は寂しいでしょ? 』
あの時の彼の表情がこびりついて剥がれない。
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ぽちり