(2021/01/15)
5.ずっと
こつん、と手に何か固いものが触れて、思い出したようにポッケをまさぐる。
親指と人差し指に挟まれてつまみ上げられたくしゃくしゃのそれを見て、棘は自室で一人、頬を緩めていた。
思い返していたのは数日前の昼時の事。
入学前の準備やら手続きやらで午前中の大半をそれに費やしてしまったあの日。
くたくたになりながらなんとか遅めの昼食をとるためいちばんちかくの食堂へと重い足取りで向かった棘。
そんな棘に容赦なく畳みかけるのは、誤って触れた指が券売機のメニューを二度押してしまうという悲劇。
野口英世の紙一枚を飲み込んだ券売機が、うどん券2枚と数枚の小銭を吐き出した時には思わず宙を睨んでしまった。
成程今日はそういう日だったか。
これはもう、朝の星座占いはきっと最下位だったのだろうと、自分の不運を星座のせいにして開き直るしかない。
そんな棘の目の前に彼女は現れた。
「あ、狗巻君」
「………」
ひょこり、とツーサイドアップの髪を揺らして小首をかしげる彼女。
どうして、彼女が、名前を。
まるで昨日会ったかのように何事もなく話しかける彼女に一瞬脳内がフリーズしてしまった。
そこで、数日前の情景が咄嗟に頭をよぎり、はっとなる。
“ あら、コンにちは ”
ぴん、と糸同士が繋がり、謎解きが解決した時のようにすっきりした心地だった。
数日前の任務を一緒にこなした同級生だ。
あの時は狐の面を付けていたし、場所も呪いとの闘いで半壊状態の病院という物々しい雰囲気で目の前の彼女と結びつけるのにてこずってしまった。
言葉の数を増やしていくほどその不確かなものは確信へと変わっていく。
そして何より、人懐こい空気をまとう彼女と目が合った時、温かいものが胸の中にあふれるのを感じた。
「ツナ」
「食券くれるの?確かに消化にいいもの食べようって思ってたところだけど」
話してみたかった。
それがまさかこんなにすぐに叶うなんて。
何かないかと口実を探した時に手のひらの中の食券二枚に救われた。
今まで不愉快でしかなかったものだったのに、まさかこんな転機が訪れるなんて星座占い最下位にも慈悲はあったらしい。
ずっと話してみたかった。
おにぎりの具という制限された語彙を使って懸命に彼女に語り掛ける。
あの後大丈夫だった?
怪我とかしてない?
たくさん任務入ってるんだね。
無理しないでね。
春からよろしくね。
明太子、高菜、こんぶ、と言葉を紡ぐ。
彼女はその一つ一つを真剣に聞き入り、時に「ねぇそれってこういう事?」と尋ね返しながら答えてくれた。
じぃっと自分を見つめる視線がこそばゆい。
語彙が少ない分、表情や視線、自分のリアクションを見逃さないようにしてくれているのがわかる。
春の陽気に当てられているような心地だった。
うどん好きだった?
いつもはどんなのを食べてるの?
他にどんな食べ物が好き?
いろいろな快の感情が胸の内から溢れ出す。
はじめはちぐはぐだったやりとりも、少しずつ伝わることが多くなってきて、嬉しくてたまらなかった。
自然とネックウォーマーで隠した頬が緩んでいく。
とうの昔に食べ終えたうどんのつゆはすっかり冷たくなっていた。
「狗巻君がそんなにお喋り好きだったなんて知らなかった」
「しゃけ」
「ふふ、うんうん。またお話ししよ?…うわ、もうこんなに時間たってる。楽しくって時計みてなかった!」
「…すじこ?」
「うん。この後、調査があるの。名残惜しいけど、また話そ!」
「しゃけ」
ころころと表情が変わるから見ていて飽きない。
彼女は時間と通知を確認し終えたスマホをポケットの奥に再度放り込むと「そう言えば」と自分を見つめた。
ぱちぱち、と数回の瞬き。
後の笑顔。
どきっとした。
目が奪われる。
呼吸を忘れてしまうほど見入ってしまった。
心の奥が花、開く。
もう、ダメだった。
「明日の任務、私たち二人でだね。一緒に頑張ろう!」
こん、と彼女はまた右手を狐の形にして振って見せた。
思わず同じく右手の親指に中指と薬指を付けて真似をして振り返す。
じゃあね、と元気いっぱい走り出した彼女はすぐに姿が見えなくなった。
ぽかん、と一人残される棘。
「…っ」
放心していた意識は急に呼び戻され、棘は思わず両手で口元を抑えてしゃがみ込んでいた。
思わず手を振りほどけば、思いのたけが呪言になってしまうだろう。
高ぶる熱をぐっと飲み込んで、棘は一人静かに息を吐きだした。
『 はじめましてだねっ! 』
違うよ。
違うんだ。
君とのはじめましては違ったんだよ。
本当の初めましてはもっと前。
『 これも何かの縁、か 』
ひとめぼれしたあの時から。
一瞬で恋に落ちたあの時から。
『 よろしくね、狗巻君 』
――ずっと話してみたかったんだ。
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ぽちり