(2021/2/2)
7.傷だらけの手
「すっごい隈!絶対寝てないでしょー!それじゃあ作業効率も下がっちゃいますよ!」
シートベルトを最大限まで伸ばして運転席の方へと身を乗り出して言う。
目の下に大きな隈を宿した補佐監督の伊地知は、ハンドルにしがみつくようにして「危ないですよ」と口先だけの注意をした。
「今度蒸気のアイマスク買って差し入れしますね!あれ、少しの時間ですっごくリフレッシュ出来ちゃうから」
「…説得力がありすぎるんですが」
「お互い苦労しますねぇ」
どんよりと影を落とす伊地知とは対照的では楽しそうだ。
車が今回の目的地である都内の廃ビルへと向かうべく発進する。
ぽつ、ぽつと雫が窓ガラスに叩きつけられ涙の痕のように流れ落ちていった。
初の合同任務は生憎の雨。
昨晩スマホアプリを確認した時には40%だったのに。
段々と強く音を立てて叩きつけるようになった雨粒をぼうっと眺めて棘はほんの少し眉を寄せた。
理由はそれだけではない。
棘の脳裏に焼き付いているのは高専を出る前のあの時の光景。
『こうやって両手首を抑えてしまえば一般人にも劣るほど貧弱で一気に無能になるから』
――そこは棘が守ってあげてね。
要所要所に突き放すような言い回しがあるのは気になるが、それほど彼女との関係が深いという事だろう。
しかし棘が引っかかっているのは涼しい顔をしながらも手荒な真似を続けていた行為そのもの。
呪術師をやっていれば怪我なんて日常茶飯事。
反転術式を使えばある程度の怪我なら治癒することは可能だった。
死ぬこと以外はかすり傷とはまさにこの事。
(…)
稽古の一環だと頭で理解していても実際傷つくところを目の当たりにするのは正直辛い。
それが、想い人であればなおさら。
ネックウォーマーに隠された唇が固く結ばれる。
隣に座る彼女のことを思うと気が気でなかった。
胸の内を色々な感情がとぐろを巻いた。
「是非その言葉は五条さんに言ってください」
「あの人の傍若無人っぷりは私なんかじゃ抑えられませんって」
「…よくあの人と師弟関係でいられますね。あっ、今のはオフレコで!」
「告げ口なんてしませんよー!それに、これには海よりも深い事情があるんですぅ」
運転の為に前を向いている伊地知には見えていないだろうが、はぷーと頬を膨らませた。
そんな彼女を横目で見て「こんぶ?」と尋ねる。
一瞬棘の言葉に目を丸くしただが、話の流れからその意味を汲み取ってくれたようで「えっと」と前置きをして話し出した。
「そう、私悟くんと師弟関係なの。もう4年目になるかなぁ」
「明太子、ツナ?」
「あーえっと、理由を聞いてるんだよね?私の母も呪術師だったってのがそもそもの始まりなんだけど…」
「さんの母、環奈さんは前線でも名の通った凄腕呪術師でした。かつては五条さんの担任を受け持っていたこともある方です」
「すじこ!?」
驚くように棘が目を見開くと、は自分のことのように嬉しそうに「らしいよ」と笑った。
「私が小さい時も普通に呪術師してたみたいだけど私そういう話全然知らなくってさぁ。でも気付いたらなんか見えるし、襲ってくるし、怖いし…呪いってなにー?呪術ってなにー?みたいな」
「しゃけ」
「…。結局いろいろあって、母さんとご縁があった悟くんが今は私の面倒を見てくれてるってわけ!」
「……」
ホントご縁だよねー、と棘に笑い掛けるをバックミラー越しに見て、伊地知は口を固く閉ざした。
確かに彼女の言う通り「ご縁」で結びつけられた関係だった。
そう言われればいくらか聞こえはいいが、彼女と五条を結ぶそれは母が娘の為に遺した呪いだ。
その事情を知る伊地知は、棘に悟られまいと明るく振舞う彼女に言葉が詰まる。
キュ、とタイヤが音を立てて急ブレーキとともに伊地知の「すみません!」という言葉が車内に響いた。
雨足が強くなっている。
視界が悪くなっていたところに前を走行する車が急ブレーキを踏んだらしい。
わっ、とほんの少しよろけたを支えるように咄嗟に手を伸ばす。
背もたれに叩きつけられる前に何とか背中を支えることに成功する棘。
しかし彼女自身も反射的に何かに手を伸ばしていて、掴んだ瞬間小さく呻いた。
「す、すすすすみません!大丈夫でしたか?」
「もう伊地知君お疲れがたまってるんだからぁー。…なんてね、全然平気です」
「…すじこ」
「狗巻君が支えてくれたおかげだねー」
「おかか」
へらり顔を張り付けてさらりと流そうとしているようだがそうはいかない。
棘はむっとしたまま彼女の手元に目線を落とす。
その意図を察したのか「やだなぁ何ともないってば」と手をひらひらさせてみせたが、棘の視線は外れなかった。
しばしの沈黙。
その空気感にいたたまれなくなり先に折れたのはの方だった。
「わぁ、もう降参ー。でもね、ほら、何ともないってば」
「…こんぶ」
そういってセーターの袖をまくって観念したように両手をあげる。
こんなにも同年代の、ましてや女の子の手のひらをまじまじ見る機会なんてそうそうないだろう。
近くで初めてまじまじと見た彼女の手は自分のよりもずっと線が細くて柔らかそうだった。
手のひらの環の呪印が嫌でも目に入る。
そして。
「……」
「あはは、あんまり綺麗なものじゃないでしょ」
傷だ。
それも無数の。
指先から手のひら、手首に至るまであらゆるところに切り傷のような跡が残っていた。
まるで何か鋭利なものでひっかいたような、擦ったようなそんな傷跡。
古いものは白くなり、触れてはいないが固くなって肉刺のようになっている。
答えは容易に想像できた――糸だ。
そこで、思考は先ほど彼女が紹介してくれた呪具を連想させた。
手指がこんな状態になるまで…。
黙り込んでしまった棘に「気分悪くしたならごめんね」とはへらり顔で袖をいじった。
完全に手が隠れてしまう前にその手をつないだのは棘だった。
「おかか!」
「え?」
「おかか!」
困惑するをよそに棘は真剣な眼差しで彼女の目を射抜いた。
まだ探り探りでしか彼の意図を組むことが出来ない彼女は目をぱちぱちとさせて動揺が隠せなかった。
「えっと、狗巻君?」
「おかか、おかか!」
「……」
そんな事ない。
とても綺麗だ。
頑張って、努力している人の手だもの。
他のどんなものよりも素敵だよ。
まるで口説き文句のように告げられる一種類の言葉。
言葉が足りない分、想いを込める。
つないだ手が緊張で汗ばんできたがそんな事はお構いなしだった。
「あの、えっと…」
通じた、と手ごたえを感じたのは目の前の彼女が目を丸くして、それから恥ずかしそうに目を伏せた時だ。
気付けば俯いてしまった彼女は耳までも赤かった。
わかったってば、と離される手を名残惜しく思いながらも、気持ちを伝えられたのは大きな一歩だった。
積極的な棘の行動に狼狽えながらも、は恥ずかしそうに呟いた。
「私だけ見せるってなんかズルくない?」
狗巻君のも見せてよ、と彼女は言う。
ちらりとこちらに向けた視線は棘の口元に向かった。
「しゃけしゃけ」
お安い御用。
ネックウォーマーの下は柔らかい笑みが浮かんでいた。
お気軽に拍手どうぞ
ぽちり