(2020.05.27)(修行時代・出会いの話)
姉弟 後
ちゃぷんと雫が髪を伝って落ちていく。
しばらくの間、湯の中に頭の先まで沈めていたせいか息は上がり、頬は熱で火照り、肩は乱れた呼吸で上下した。
取り付けられた窓から外をぼーっと見やると夜も深まり不気味なほど静まり返っている。
いくらか整ってきた呼吸でほう…とため息を吐くと、それに揺られて水の音が反響した。
「…」
目を閉じて、神経質なほど剥き出しになっている感覚を落ち着かせていく。
闇の冷たさが頬を撫でると、同時にかっと沸き上がった頭の熱まで一緒に冷ましてくれた。
(獪岳兄さんと一緒の事してたって駄目なんだ)
兄弟子との手合わせは自分の未熟さを痛感させられて、正直凹んだ。
一見不愛想丸出しな彼は、唯一、他の弟子たちと違い自分を「女扱い」しない人だ。
だからこそ容赦なく木刀を打ち込んでくるし、隙を見せれば師範直伝の呼吸を使って来ることもある。
(もっと修行しなきゃって思うのに、すればするほど差が開いていってる気がする)
焦燥感が不安を煽る。
今日だって何度地面の上を転がり回されたかわからない。
湯船につかってみて気付いたが体中には至るところに新しい擦り傷や青痣が出来ており、は目からくる痛みに眉を潜めた。
お世辞にも15の女子の体とは言えない両の腕。
それでも手合わせ中は痛みよりも悔しさが先立ち、意地と根性だけで立ち向かっていたのを思い出して自嘲の笑みを浮かべる。
(ま、ここでいくら悩んだって寝て起きたら強くなれるわけじゃないんだから)
涙は湯船の中に捨て置いた。
泣きたくなる時、はいつもこうやって人知れず吐き出して、その全てを水に流した。
泣いていたって仕方がない。
ほう、ともう一度気分を切り替えるように息を吐きだす。
その時、水の音が反射して高ぶった自分の感覚に一つの情報を届けた。
(すぐそばに善逸の気配。どうしたのかしら)
覗き?という疑問が一瞬脳裏をかすめる。
こんな傷だらけの女子の体が何の得になるというのだろう。
物好きな奴だなぁと内心冗談めいたように笑うと、傍を離れようとしない新しい弟分の為に立ち上がった。
+
「どうしたの?迷っちゃった?」
まるであたかも最初からその存在を知っていた物言いでそう告げると、彼はびくりと肩を震わせたかと思うと、ぱっと顔を赤らめた。
それもそのはず、は湯上り間もない隙だらけの姿。
水気を含んだ髪は艶めかしく、熱が残る頬は赤く染まり年相応の色っぽさがあった。
心臓がまろびでるんじゃないかというほど大きく跳ねた善逸。
そんな彼の挙動のおかしさにも目をくれず、はきょとんと首をかしげて彼の隣に腰を下ろす。
「――泣いてたから」
「え?」
「あ、えっと!…ちゃんそのままだと風邪ひいちゃうよ。よかったらこれ使って!」
慌てて話を逸らし、差し出されたのは一枚の手拭い。
どうしてこんなものを、と思いつつも「でいいのに」と微笑してそれを受け取ると、彼はほっとしたようだった。
髪の水気を丁寧にふき取っていく。
用は済んだはずなのに彼は手持ち無沙汰のままそこに立ち尽くしていたので、は隣をぽんぽんと叩いて座るように促した。
おずおずと腰を下ろす彼の挙動は落ち着きがなく、耳まで真っ赤にして自分の膝元を見てばかり。
「今まで誰にも気づかれた事なかったのになぁ」
「…何が?」
「泣いてたこと」
「ごめん!盗み聞きするつもりじゃなくって。えっと…気持ち悪いよね」
「そんな事ないよ。他の人が聞き落としてしまうような小さな助けな声を見つけてあげられるって事だもの。弱い人を助けてあげられる素敵な能力だと思うよ」
「……」
ちらりと盗み見るように善逸は彼女を見た。
そこにいるのは「泣いてたこと、恥ずかしいから師範や獪岳兄さんには言わないでね」と微笑む彼女。
今までこの人一倍優秀な聴力のお陰で何度気味悪がられてきたかわからない。
けれども目の前の彼女からは不気味がったり、不信がったりするような音は一切聞こえなかった。
「獪岳兄さんに日中手合わせして頂いたんだけどね、もうこてんぱんだったから悔しくなっちゃって。明日からまた頑張らなくっちゃ」
「…あの獪岳って人とは兄妹なの?」
「ううん、血の繋がりはないよ。私よりも少し先にここで桑島師範の元で修行を始めたの。だから兄弟子であり、私は親しみを込めて兄さんって呼んでる」
「そうなんだ」
「だから善逸は私にとっては弟分になるわけだ。改めて宜しくね」
「うん」
まだ湯浴み後の熱が残る手を差し出す。
指先は傷だらけで所々肉刺がつぶれた後のようなものが残っていた。
女の人の手を握るのは初めてでドキドキしたけど、きっと今まで付き合ったどんな女の子よりも不格好で硬くて、決して綺麗なものではなかったと思う。
でも、それは彼女が人一倍努力して積み重なってできたものだと一瞬で伝わった。
格好いいと思った。
ごくりと生唾を飲み込む善逸。
月光に照らされて淡く微笑む彼女が儚く見えて、凛としていて、見惚れてしまった。
「、姉ちゃん」
「はいはい」
心の中で「姉ちゃん」ともう一度まじないでも唱えるように繰り返す。
親しみを込めて、呼ぶ。
ここでなら。
この人となら、やっていけるかもしれない。
騙されてばっかで、借金も抱えて、なさけないったらありゃしないけど。
そんな自分だって、ここでもう一度やり直せるのかもしれない。
…なんて、この時悠長にもそんな風に考えていた自分を数日後の自分は殴り飛ばしたいと思うだろう。
「死んじゃうって!無理だぁって!!」
「降りて来いバカモン!」
「降りたら死ぬじゃん!俺!すごく弱いので!」
「善逸大丈夫大丈夫ー!修行は死ぬほどつらいけど、実際に死んだ人はいないからー」
「何その精神論!そんな理屈で耐えられるのは姉ちゃんくらいだから!!」
翌日、修行が始まったばかりの善逸の悲鳴がそこら中に木霊した。
そんなやりとりは毎日のように見受けられ、いつしか桑島邸での恒例行事になったそうな。
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