(ジュード・chamomileシリーズ)
1.時には毒となり得る
人は願いを胸に抱き、叶えばと空を見上げる
精霊と人が暮らすこのリーゼ・マクシアでは、皆がそうして暮らす
人の願いは精霊によって、現実のものとなり、精霊の命は人の願いによって守られている
故に、精霊の主マクスウェルは、すべての存在を守るものとなりえる
世に、それを脅かす悪など存在しない
あるとすれば……それは人の心か
ぱたん、と今読んでいた本を閉じると、は自分の名を呼んだ相手の方へと振り返る。
すっかり出掛ける準備を終えた教授を待たせないようにと慌てて本棚に読んでいた文献を挟み込み、自分も身支度を整える。
「お待たせしました、ハウス教授」
「早かったね。じゃあ行こうか」
「はい」
授業や研修で外出することが多く、最近はお留守番を余儀なくされていたが今回はなんと同行してもよいとのお許しが出た。
これにはも大喜びで、尻尾がもしあれば千切れんばかりに振られていただろう。
念の為に、と護身用の装備も欠かさない。
「あら、ご機嫌ね」
「プランさん。うん、今から一緒にお出掛け」
「いってらっしゃい。じゃあ今日の予約対応はジュード先生ね。あら、今日はまだ見てないわね」
「…講義、遅れてるのかも」
「もう少し待ってみるわ。も一緒に待つ?」
「待たないっ!行ってきます!」
眉根をきゅっと寄せて猛講義するにプランは「冗談よ」とくすくす笑い、見送る。
歩みを始めたハウス教授から離れないよう、それでも謙遜してやや後ろをついて歩く。
ロビーに出たところで見慣れた研修医姿の学生が駆け寄ってくる。
「…ジュードくん」
「ハウス教授!…も、お出かけですか」
「遅かったね」
「す、すみません」
「まぁいいさ。それよりも、みんなには秘密だが極秘に研究所の仕事を頼まれてね」
声を潜めてハウス教授が言うと学生、もといジュード・マティスは「すごい」と感嘆の息を吐いた。
「オルタ宮直々の仕事ですね」
「それじゃ、留守を頼んだよ。今日は予約の患者さんしか来ないから君でも見られるだろ」
「え……」
「…。プランさんに引継ぎしてあるから」
ジュードがぎょ、とした顔色になったのはこの学校では研修医だけでの診察は禁止されているから。
真面目な彼は渋い顔をしながらも、いつも通り引き受けてしまう。
「あ、そうだ。単位の署名をお願いします」
そういって、ジュードはハウス教授に紙きれを渡した。
ハウス教授の荷物を手を伸ばして受け取り、サインするのを見守る。
「卒業論文はどうかね?」
「火霊終節には一回目の提出が出来ると思います」
「…少し遅れてるね。しっかりしなさい」
単位申請の紙を受け取り険しい顔のままのジュード。
はそんな彼が何週間も夜通し研究に励んでいるのを知っているため、黙って聞いていた。
ハウス教授は続ける。
「卒業後は、私の第一助手として期待しているんだからね」
「は、はい!」
「五の鐘の頃には戻る」
激励を受けぱあっと顔色が華やかになるのと、が顔を上げたのは同時だった。
ジュードと2人で顔を見合わせて微笑みあう。
「じゃあ」
「気を付けてね」
「討伐や採集じゃないし、平気」
「そっか」
お互い片手をあげてそれぞれの道へ進む。
ハウス教授に後れを取らないように、は小走りで駆け寄った。
タリム医学校を抜けて学術研究所へと直進する。
イル・ファンは朝も昼も常に暗闇が空を覆っていた。
人の心を落ち着かせる幻想的な空間だった。
薄暗闇をぼんやり照らすのは街路樹の存在。
簡単な精霊術で明かりが灯る仕掛けとなっており、水辺、町を優し色が包んでいた。
「もう、ここに来てどれくらいになるかね」
ハウス教授が言った。
「1年と少し」
「あっという間だね」
「…いきなり、どうしたんですか?」
感傷にふけるような言い草には眉根を寄せる。
この夜のようなそれがそうさせるのかもとも思ったが、隣より少し前を歩くハウス教授の表情からは何も読み取れなかった。
「身体の調子はどうかね」
「お陰様で」
「それはよかった。はじめは驚いたよ、君の体質は特殊だったから。第一発見者が私でよかった」
ハウスの言葉に黙りこくってしまう。
街中だからと言葉を選んでいるが、彼はリーゼ・マクシア人ならあるはずの霊力野が私の体内で上手く活用されていないことを知っている。
脳の中の器官としてではなく、心臓に後付けされている“何か”でマナを発生させているということも。
「君はまだ幼いのに本当に優秀な薬学者だ。従来のものだけでなく現代医療にも精通している。私のそばに置いておくのが勿体ないくらいだよ」
「私なんて、まだまだ」
「謙遜することはない、実力は誰もが認めているよ。見たものを一瞬で脳内に記録してしまう記憶力、植物に関する知識と勘のよさ。正直嫉妬してしまうよ、本当に惜しい」
「ハウス教授?」
「ついたね」
研究所の入口でハウス教授に続いてペンを受け取り署名をする。
・。
早く書き終わってしまった教授はのペンが綴る文字をじっと眺めて目を細めた。
入場手続きを終えて、薄暗い室内を歩く。
過去に何度か来たことのあるらしい教授は慣れた素振りでパスコードを打ち込み、室内へ入っていく。
いつもとは様子の違う教授に疑念を浮かべながらもは続いて室内に踏み入る。
そして、つん、と張り詰めた冷たい空気に一気に警戒心を高めた。
「ハウス、教授、これは」
「――さっきの続きだがね」
何もない部屋だった。
の疑問には答えずにハウス教授は続ける。
ばくばくと胸を打つ早鐘の音が喉のあたりまで登ってきてうまく息が出来なくなる。
身構える。
決して自分を見ようとしない教授を。
1年と少し前、何も言わずに私を助けてくれた恩人を。
こんな状況になってもなお、嘘だ違うと否定したがる自分に虫唾が走る。
「私は君にいくつか隠し事をしていたね。それに関しては詫びよう。まぁ君も同じようなものだろうから不要かもしれないが。でもこれだけは本当だ――君を見つけたのが私で本当によかった」
機械盤に指を這わせるとの足元から精霊術が作動する。
咄嗟に精霊術で対抗しようとするものの、詠唱虚しく両手を拘束され、バランスを崩してしまう。
(く…重たい、なにこれ)
「無理はしない方がいい。自力では外れないようにプログラミングされている」
力づくでもうんともすんともしない装置を振りほどくことをあきらめると、目の前の男を睨みつけた。
「知ってたってわけか、全部」
「私も成功例に会えるなんて思っても見なかったがね。おかげでいいサンプルが取れた」
「最低」
「優しい大人を信用した君の落ち度だよ」
「…」
「本当に惜しい。だが、君にはまだしてもらうことがある」
ぱちん、とボタンを押すと急に立ってはいられないほどの眩暈に襲われる。
腕に取り付けられた装置が、明らかに体内のマナをいじくりまわしていた。
視界がぐわんぐわんと揺れて内側からかき乱される感覚に吐き気すら覚えた。
ぷつん、と張り詰められた糸が切れるように意識が遠のいてしまった。
「それまで少し休んでなさい」
お気軽に
ぽちり