(2019.9.26)









 39.そして色付いた









この鍵を、持ち主に返さなくてはいけないな。


マティス先生はそう言って私の手のひらに小さな鍵を乗せた。

ちゃり、と金具の部分がこすれて音を出す。

革製の四角いストラップ。

形状。

触れた感触。

そこから一気に情報は広がって脳裏に嫌というほど当時の光景を映し出していく。


(私の、家の鍵)


話を聞くと今もまだあの時出ていったままの状態で家は残っているらしい。

場所も、家の形も、屋根の色も鮮明に思い出せる。

10年前まで住んでいた場所。

思いでのたくさん残る場所。



木枠で出来た四角い窓。

揺れる白いレースのカーテン。

手を伸ばせば届く位置に重ねられた本の山。

ベッド。

皺の寄ったシーツ。

ベッドの上が私の居場所。

調子のいい日は庭の手入れをする母の手伝いをして、よくない日はベッドの上で大好きな本をひたすら読んだ。

そんなある日の事。

いつも通りの日々に色が増える。


『 ねぇ。いつも、何の本を読んでるの? 』


声がしてドキリと胸を高鳴らせる。

肩をぎゅっと寄せて声の方を見ると窓枠にしがみつくようにしながら、中にいる自分に話しかける同年代の女の子の姿があった。


『 いつも本読んでるよね 』


彼女の姿は見覚えがある。

家の真向かいの宿を経営する夫婦の娘さんで、歳はおそらく同い年の女の子だ。

いつ見ても溌溂としているというか表情豊かで、笑ったり泣いたり怒ったり自分とは大違いだなとどこか敬遠してしまう自分がいた。

自分とは対照的で、眩しくて。

だからこそ声を掛けてもらったことが純粋に嬉しくて、心から笑顔がこみ上げてきて、気づけば言葉が次々と飛び出してきた。


『 私、本好きなの。国の事、文化の事、食べ物の事…知らないことを知れるから 』

『 そうなんだ。私は眠くなっちゃうから苦手かも、あはは 』


それから事あるごとに彼女は窓枠から顔を出し、お喋りの時間を楽しんだ。

同い年という事もあって打ち解けるのは早かった。


『 レイアでいいよ。皆そういうし 』

『 …レイア 』

『 なーに、 』


表情がころころ変わる彼女を見ているのは正直退屈だった世界に色づいていくみたいで好きだった。

本を読んでいる時間も好きだったが、それ以上に彼女の持ってくるネタはどれも新鮮で、本に乗ってない事ばかりで、どの物語よりもわくわくさせた。

気付けば彼女が訪れることが楽しみになっていた。

色が増えていく。


『 レイア…おばさんが探してたよ 』

『 やっばー!お使い頼まれてたんだった! 』


時間を忘れて話し込んでしまう彼女を、いつしか迎えに来る存在もあらわれるようになった。

窓枠に背伸びをするようにしがみつく彼女の隣に、窓枠から少しだけ見える黒髪の男の子。

大人しい雰囲気から顔だけ見れば女の子にも見えなくもない彼は、マティス治療院の診察の時に何度かあったことがある。

ごめん、

なんて言って手を振るレイアに対し、男の子はぼそぼそとした雰囲気でぎこちなく一礼をし、彼女の後を追うように走っていってあっという間に見えなくなってしまった。

姿が見えなくなって、肩がすとんと落ちる。


(名前、聞きそびれちゃった)


なんて、溜息を一つ。

次の診察の時にまた会えるだろうか。

わかりやすく意気消沈していると、庭の手入れを終えた母が後ろから声を掛けた。


『 あら、ジュード君も来てたの。お友達が出来て毎日楽しそうね 』


母が言う。

ジュード君。

そうか、それが彼の名前なんだ。


『 ジュード君 』


唇を震わせて復唱する。

友達、という言葉に気恥ずかしさを胸に抱く。

覚えたての名前をもう一度心の中で呟いて、忘れないようにしっかりと胸に刻みこんだ。


それも彼此、10年前の事だ。









「何だか僕の方が緊張しちゃった」


マティス治療院の奥にある自宅で夕食を終え、ジュードの案内では客人用の空き部屋に通されていた。

ミラとは相部屋だが、昼間の検査と長距離の移動に疲れが出たようで、すでに隣で落ち着いた寝息を立てている。

そのことに安堵しながら、ジュードの方を見やると彼は気恥ずかしさが混ざったような苦笑で見返してきた。


「自分の家なのに、なんでジュード君が緊張するの?」

「だって、まさか母さんと2人で台所立つ姿が見られるなんてさ」


なんか変な感じ、とジュードが呟いて頬を掻いた。

今晩から眠る予定のベッドに腰を下ろし、不思議そうに首をかしげる

それもそのはず、イル・ファンでの彼女は自炊をする姿なんて皆無に近く、本当に気まぐれで数回程度ご馳走になった事があるくらいだった。

ほとんどの場合はハウス教授の研究室か治療室のどちらかで人目を避けるように出来合いのものを食べたり、サンドイッチをかじったり。

てっきり料理が苦手だとばかり思っていた彼女が、まさか自分の母親と一緒に夕食の準備をする事になるなんて。


「誘われたから。だからなんとなくよ」

「母さん嬉しそうだったね。いつの間に打ち解けたの?」

「…。お昼、急患に立ち会ったから。…あんな風に誰かと一緒に料理をするのも悪くないね」


自分の母さんがもし生きていたら、あんな風に一緒に何かを作る未来もあったのかもしれない。

言葉には出さなかったが、心の中で呟いて寂しさがこみ上げてきた。

久しぶりの息子の帰宅は母親としてもかなり嬉しいものだったらしく、夜ご飯はほとんどジュードの好みのものと言っていた。

中でも豆腐の味噌汁はエリンの指導の元が初めて作ったもので、それに舌鼓を打つ姿を見て悪い気分はしなかった。


「今日教えてもらったものは作り方覚えたから、また気が向いたら作ってあげる」

「本当?やった」


照れを隠すようにふい、とそっぽを向きながら言うにジュードはくすりと笑みを浮かべる。

決して覚えは悪くない彼女だ。

イル・ファンで料理を作った時も自分が作ったものの真似か、何かの本で学んだものだったという事もあり、今まで見る機会や作る機会が少なかったのかもしれない。


「ミラの足はどうだって?」


そう切り出すと彼の表情は一気に険しいものとなり、哀しみ、というよりは怒気を含んだものになった。

粗方、父のディラックに一蹴されたのだろう。

とエリンが急患対応をして戻ったころにはジュードの姿もなく、帰りも遅かったから彼も彼なりに考えて何かを模索していたことが窺えた。


「父さんはああいったけど」

「納得できてないわけだ」

「…あんな言い方じゃ納得できないよ。それに、きっと何か手はあるはずだよ」


普段のジュード君らしからぬ不貞腐れたような様子の彼には小さく「そう」と呟いた。

私も、空いた時間は力になるからと告げると、彼の表情もふっと軽くなる。


「…のほうは大丈夫だったの?」

「今日は午後の診察が始まっちゃったから明日朝いちばんに診て下さるって」

「そっか。そっちも何かあったら何でも言ってね」


こくん、と頷く。

顔色が思わしくないのはきっと明日の診察に対する不安やバツの悪さがあるのだろう。

は少し思慮してジュードの方へと両手を伸ばす。


「…」


疑問符を浮かべながらそれを握り返すジュードを自身の隣に座らせる様に引っ張ると、案の定彼は予期せぬ彼女の行動に「うわ」と小さくこぼしてベッドに沈み込む。

体勢を崩しながらも横並びになり座る状況に驚くジュードにこれまた何も告げることなくそのまま両手を強く握りしめる


「大丈夫よ。全部上手くいくわ」


ぎゅ、と手に力を込める。

ミラの足の事も。

家族の事も。

の治療の事も。


「ジュード君、大丈夫」

「うん、そうだね」


握り返す彼の温度と自分の温度が混ざって溶けていく。

互いの不安な思いも一緒に流れていくようで、流した気持ちの分、安心感が返ってくるようだった。













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